不倫相手は「ドール」とは(前編)

 人には誰しも秘密のひとつやふたつはある。だがそれさえも暴かれてしまうのが夫婦関係かもしれない。心で思うことは内緒にできても、行動している現実は完全に秘密にすることはできないからだ。
 
 東京郊外に住む安藤祥平さん(48歳・仮名=以下同)が結婚したのは13年前。35歳になっても結婚する気配のない彼を心配した親戚が、知り合いの女性を紹介してくれたのだ。
 
「結婚にはあまり興味がなかったんです。といって女性に興味がないわけではなかったけれど」
 
 そう言って祥平さんは微笑んだ。黙っているといかついイメージだが、面と向かうと目がやさしい。笑うとさらにその目尻が下がって、人懐こい感じになる。

「ただ、積極的に女性に自分からアプローチするタイプではないから、とにかくモテない。それでも大学時代に心底好きになった人はいたんです」

 同じ学部だったから、よく隣り合って講義を聴いていた。仲間内でしょっちゅう集まっていたが、3年生になったある日、彼は思いきって彼女に「好きだ」と告げた。彼女は「やっと言ってくれた」と笑顔を見せた。今より女性からのアプローチはしづらい時代だったかもしれない。

「周りも盛り上がっちゃって、早く付き合えばよかったんだよと言われて。就活もお互いに励まし合ってがんばりました。ふたりともなんとか希望の会社に入れたんですが」

 彼はいきなり言葉を切った。決定的な言葉を吐けないように見える。間があいた。

「就職して3年たったら結婚しようと言っていたのに、2年たったところで彼女がいなくなったんです」

 事故で亡くなったのだった。「自分もあのとき、半分死んだ」と彼はつぶやいた。

自信を回復、そして下したある決断

 それからは何をしても心から笑えなくなった。週に1度は彼女の墓前で長い時間を過ごしていたという。3回忌が終わったとき、彼女の母から「あなたもこれからは自分のことを考えて。そのほうが娘も喜ぶと思う」と言われた。それでも月命日には彼女の墓に通い続けた。

「彼女なしでは生きていけないと思っていたけど、ふと気づいたら5年がたち、30歳になっていました。その間、女性と一夜を過ごしたこともあるし、風俗に行ったこともある。どんなに大事な人を失っても、生きている自分は世俗にまみれてしまう。彼女を忘れることはないけれど、自分の人生をもうちょっと主体的に生きることも重要なのかなとようやく思えるようになりました。まずは適当にやっていた仕事に本腰を入れようと決めたんです」

 ちょうど部署が異動になり、信頼できる上司に恵まれたこともあって、彼は仕事に全力を注いだ。やれば結果はついてくる、少し自分に自信がもてるようにもなった。

「その年の冬のボーナスがけっこうよかったんです。それで思い切ってある物を買いました」

 それがラブドールだった。以前から、亡くなった恋人に似たラブドールの広告が雑誌に出ているのを見ており、どうしてもほしかったのだという。

「わざわざ彼女そっくりのラブドールオーダーメイドしてもらうのはさすがに気が引けるけど、もともと似ているのだから気になってたまらなかった。数十万するものなので、まずは店に予約して観に行きました。現物に出会って本当にびっくりした。彼女がよみがえったように思えて……。思わず涙ぐんでしまいました」

彼女の愛称をつけた人形

 店の人に彼女を失ったことを話した。そういえば誰にもそんな話をきちんとしたことがなかったと彼は気づいた。学生時代の仲間と会っても、みんな気を遣って彼女の話を祥平さんにはしなかったからだ。

「大枚はたいて人形を買いました。彼女の名前をそのままつける気にはならなかったので、愛称だった“ゆっこ”と名付けたんです。人形のゆっこは、ひとり暮らしの部屋に置き、いつも一緒に過ごすようになりました」

 ラブドールを作っている会社を取材したことがある。祥平さんの場合はたまたま人形のほうが彼女に似ていたのだが、先立たれた恋人や妻に似せて人形を作ってほしいという依頼は少なくないのだという。愛した人を亡くす喪失感がどれほど大きいか、想像に難くない。

 祥平さんは、ゆっこさんが来てから部屋には誰も入れなかった。以前は、出張のため地元から上京してきた父を泊めたこともあるが、ゆっこさんがいるので泊められない。父のためにホテルをとった。父は女性と一緒に住んでいると勘違いしたらしい。

「それでも35歳のときに見合いしたのは、現実の女性と家庭を築きたいと思ったからです。人形のゆっこはラブドールですから性行為に及ぶこともできます。柔らかくて気持ちいいけど反応はない。それが妙に寂しくなって……」

 こんな話をして大丈夫ですかと彼がつぶやく。せつなかった。